関山 中尊寺[岩手県平泉 天台宗東北大本山]

中尊寺の歴史

天台宗東北大本山。850年、慈覚大師円仁の開山。
12世紀初め奥州藤原氏初代清衡公が前九年・後三年の合戦で亡くなった命を平等に供養し、
仏国土を建設するため大伽藍を造営しました。

平安時代の中尊寺

 中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山の高僧慈覚大師円仁によって開山されたといわれています。慈覚大師は天台宗第三代座主で、世界三大旅行記のひとつ『入唐求法巡礼行記』の著者としても知られています。大師の開山は「勧請開山」といって、師の法を汲む人々がその徳を偲んで開山として仰いだものです。11世紀後半、前九年・後三年の合戦を経て、安倍氏・清原氏と受け継がれた奥六郡(岩手県中南部)を藤原清衡公が伝領し奥州藤原氏が興ります。清衡公は江刺郡豊田館から衣川を南に越えて平泉に居を移し、長治2年(1105)、かつて関所(衣関)のあった要衝の地、関山に中尊寺を造営します。はじめに白河関(福島県)から外浜(青森県)にいたるまで一町ごとに笠卒都婆と呼ばれる供養塔を建て、その中心にある関山に一基の塔を建てたといわれます。その後多くの伽藍が造立され、その規模は寺塔40余宇、禅坊300余宇に及びました。

 そのなかで現存する唯一の創建遺構である金色堂は三間四面の小堂ながら平安時代の漆工芸、金属工芸、仏教彫刻の粋を凝縮したものであり、また奥州藤原氏の葬堂として日本史上に独特の位置を占めてきました。また経蔵には藤原氏三代によって発願され書写された金銀字交書一切経、金字一切経、金字法華経が納められました。金字一切経は都でも皇族や上級貴族しか行うことのできなかった写経事業で、金銀字一切経にいたっては慈覚大師の『入唐求法巡礼行記』に中国五台山に存在したと記されているのみで、国内では唯一のものです。

 その後、平泉は二代基衡が毛越寺、三代秀衡が無量光院を造立して仏教文化が花開きます。当時、東大寺大仏殿再建の勧進に平泉を訪れた西行は、中尊寺の東方に優美に横たわる束稲山を眺め、「聞きもせずたばしね山の桜ばな 吉野の外にかかるべしとは」(聞いたことすらない束稲山の桜花よ 名に知れた奈良吉野の千本桜の外にこれほどの桜の名所があったとは)と詠みました。また、平泉に北接する衣河館には三代秀衡公の猛盛をたのんで源義経が寄寓し、来るべき動乱の幕開けを予感させていました。

鎌倉・室町時代の中尊寺

 治承4年(1180)、兄源頼朝の挙兵に呼応して伊豆黄瀬川の陣に参じてからの義経は破竹の勢いで平家を追討し、一躍英雄となります。しかし、頼朝との亀裂によって追われる身となった義経は文治3年(1187)、秀衡公をたより再び平泉に身を寄せます。同年10月に秀衡公が病死すると、四代泰衡公は、頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。しかし源頼朝を棟梁とする鎌倉の軍勢は奥州を攻め、文治5年(1189)、藤原氏は滅亡します。

 頼朝が平泉に入った時、秋風と、音もなく降りしきる雨の中、灰となった町には人影すらなかったと『吾妻鏡』は伝えています。平泉の寺々を巡礼した頼朝はその仏教文化に感銘を受け、中尊寺二階大堂にならって鎌倉に永福寺(二階堂)を建立しました。

 頼朝は、奥州の国務は藤原氏の先例に従うように命じ、御家人の葛西清重に平泉の安全を保つよう命じました。こうして寺院の存続は約束されましたが、奥州藤原氏という大きな後ろだてを失った中尊寺は、以後長く厳しい時代が続きます。建保元年(1213)、北条政子の夢枕に藤原秀衡公があらわれ平泉寺院の修理をうながしたことにより、幕府は郡内の地頭にその修理を命じたと『吾妻鏡』は伝えています。また幕府は正応元年(1288)には金色堂を修理し、覆堂(おおいどう)を設けるなど数度にわたる修理を行いますが、しだいに平泉内の寺院は荒廃していきます。

 南北朝時代に入り、南朝方の鎮守府将軍北畠顕家は藤原清衡公の中尊寺建立に対する願意と、往時の伽藍の様子を後世に伝えるべく「中尊寺建立供養願文」を書写し、それが寺史の第一級史料として現在に伝えられています。旧鐘楼の梵鐘銘によると建武四年(1337)、中尊寺に大きな火災があったと伝えていています。戦乱と貧困のなか、かろうじて金色堂や中尊寺経などの寺宝が守り伝えられました。

仙台藩と中尊寺

 戦国時代に入ると平泉の諸寺院はますます荒廃が進みます。豊臣秀吉は小田原北条氏を降すと、ひき続いて東北地方の仕置きをおこないます。この際、秀吉の命令によって中尊寺の秘宝である「金銀字一切経(きんぎんじいっさいきょう)」・「金字一切経(きんじいっさいきょう)」あわせて4,000巻以上が京都伏見に運び出され、それが現在「中尊寺経」として高野山や観心寺などに所蔵されています。

 江戸時代には平泉は仙台藩領となります。歴代の藩主は寺の収入を安堵し、堂社を修理するなど中尊寺をあつく保護します。現在参道ぞいに立ち並ぶ樹齢350年の老杉も仙台藩によって植樹されたものです。山内に点在する堂の多くもこの時代に建立されました。また藩主は能楽を愛好し、古来中尊寺の僧侶により山内の白山神社に奉納されてきた御神事能(ごじんじのう)を推奨し、能舞台を建立して能装束を奉納しました。

 この時代、江戸幕府の寺社政策によって中尊寺は上野の東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)の直末寺となりました。

松尾芭蕉と中尊寺

中尊寺開山慈覚大師坐像 源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、松尾芭蕉は門人の曽良と2人、「奥の細道」の旅に出ます。芭蕉46才、曽良41才の春です。江戸を発ってから44日後の5月13日、細道のはて平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居館があったと伝えられる高館の丘陵にのぼります。丘の頂きに忽然とあらわれるのは束稲山のふもとに悠然と横たわる北上川と、それに合する衣川。そこには往時の栄華はなく、旧跡は田野となってひろがっているばかりです。

夏草や 兵どもが 夢の跡

 「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という杜甫の句を思い起こしながら芭蕉はしばらく高館に笠を下ろします。続いて中尊寺を訪れた芭蕉は、かねてより伝え聞いていた金色堂に参詣します。鎌倉北条氏によって建てられたといわれる覆堂の中で、朽ち果てた金色堂はかろうじて光を投げかけます。

五月雨の 降り残してや 光堂

 金色堂を光堂と称したのも、仏と人との間に介在する光と、その光の彼方にある盛衰の歴史に、芭蕉のまなざしが向けられていたからに相違ありません。

昭和の中興

 明治時代以降、金色堂は国庫の補助による数度の修理がおこなわれています。

 第二次大戦後、法隆寺金堂壁画の焼失をきっかけとして文化財保護の機運が高まるなか、「文化財保護法」が制定されます。金色堂は国宝建造物第一号に指定され、その他3,000点以上の宝物が国宝・重要文化財の指定を受けます。

 昭和25年(1950)には金色堂須弥壇(しゅみだん)の内に800年の間安置されてきた藤原四代公の御遺体の学術調査がおこなわれます。この調査によって四代公の人種、年齢、死因、身長や血液型など多くのことが解りました。また多数の副葬品のなか、四代泰衡公の首桶から発見されたハスの種が平成10年開花に成功し、「中尊寺ハス」として初夏には清楚な花容をみせてくれます。

 昭和33年(1958)には比叡山延暦寺より不滅の法灯を分灯し、天台宗東北大本山の称号を認められました。

 昭和37年(1962)には金色堂の解体大修理がおこなわれ、金色堂は創建当初の輝きを取りもどしました。

 平成23年(2011)には「平泉-仏国土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」として世界文化遺産に登録され、奥州藤原氏の平和思想にもとづく文化が世界に発信されることになりました。