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中尊寺の歴史

鎌倉・室町時代の中尊寺

治承4年(1180)、兄源頼朝の挙兵に呼応して伊豆黄瀬川の陣に参じてからの義経は破竹の勢いで平家を追討し、一躍英雄となります。しかし、頼朝との亀裂によって追われる身となった義経は文治3年(1187)、秀衡公をたより再び平泉に身を寄せます。同年10月に秀衡公が病死すると、四代泰衡公は、頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。しかし源頼朝を棟梁とする鎌倉の軍勢は奥州を攻め、文治5年(1189)、藤原氏は滅亡します。

頼朝が平泉に入った時、秋風と、音もなく降りしきる雨の中、灰となった町には人影すらなかったと『吾妻鏡』は伝えています。平泉の寺々を巡礼した頼朝はその仏教文化に感銘を受け、中尊寺二階大堂にならって鎌倉に永福寺(二階堂)を建立しました。

 頼朝は、奥州の国務は藤原氏の先例に従うように命じ、御家人の葛西清重に平泉の安全を保つよう命じました。こうして寺院の存続は約束されましたが、奥州藤原氏という大きな後ろだてを失った中尊寺は、以後長く厳しい時代が続きます。建保元年(1213)、北条政子の夢枕に藤原秀衡公があらわれ平泉寺院の修理をうながしたことにより、幕府は郡内の地頭にその修理を命じたと『吾妻鏡』は伝えています。また幕府は正応元年(1288)には金色堂を修理し、覆堂(おおいどう)を設けるなど数度にわたる修理を行いますが、しだいに平泉内の寺院は荒廃していきます。

 南北朝時代に入り、南朝方の鎮守府将軍北畠顕家は藤原清衡公の中尊寺建立に対する願意と、往時の伽藍の様子を後世に伝えるべく「中尊寺建立供養願文」を書写し、それが寺史の第一級史料として現在に伝えられています。旧鐘楼の梵鐘銘によると建武四年(1337)、中尊寺に大きな火災があったと伝えていています。戦乱と貧困のなか、かろうじて金色堂や中尊寺経などの寺宝が守り伝えられました。

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